<琉球弧>という視点でとらえられる島々というと、人々は眩い陽光と碧く光りきらめく海、花々や樹々の豊かな色彩を想いうかべる。
 しかし、ニライ・カナイや籠宮伝説に想像力の深層をゆらし、ユタによって霊を招く「オキネシア」のひとびとは、自然の循環のなかに光りとともに冥い闇をみつめてきたのだ。
 垣花恵子のまなざしのゆらぎの振幅は、それを時間と空間の座標軸でとらえる。
 死と再生の→タナトスとエロスの現実と、幻想がむすびつき、老婆の浮きだした静脈に、木根を絡ませた榕樹(ガジュマル)をみいだし、ふかく刻まれた皺の年輪に、大地の大地の歴史のひび割れた呼吸の音を聴く。それはミクロコスモとマクロコスモスの痛烈なメタファーであり、表皮と内臓の同衾の愛であり、風と海鳴りと子宮の、古代からつづく交響であり、アイヌと縄文とウチナンチュを通低させる遺伝子の舞踏会の古い手帖なのである。物質というものを、変化の過程と手の介入によって、コラージュの思想も空間にねりこまれてゆくのであろう。
 シュルレアリスムの影響を受けたというよりも、わたしのみかたでは、垣花恵子の内部にひしめく現実が、シュルレアリスムを発見してしまったのだろう。
  ひとは深い内部を凝視し、生きようとすれば、シュルレアリストになるのである。古代人や沖縄のひとびとや、アニミズムの世界にいるひとびとは、フロイトやブルトンに出遭うことなしに、シュルレアリストなのである。 ー垣花恵子の世界に接してー
時間空間の交錯のなかで凝視する内部の想像力
                     ヨシダ・ヨシエ(美術評論家)