沖縄本島観光ツアー日記[1]
ー「平和の礎(いしじ)」「平和祈念資料館」「ひめゆりの塔」ー

     河津みのる(詩人・エッセイスト)

[1]「平和の礎(いしじ)」「平和祈念資料館」「ひめゆりの塔」
       
                                                                     
■「平和の礎(いしじ)」へ
 沖縄・那覇(なは)空港へつくと、コンコースには赤紫色のコチョウランがずらりと飾られていた。
 冬の季節だというのに、街路樹は、緑葉をつけ、あちこちにハイビスカスが赤い花を咲かせている。
 南洋ザクラがピンク色の花をさかせ、コヒガンザクラも可愛い花をちらほら。
 亜熱帯の島にきたと、肌で実感できる。
 NHKの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」が、家庭で話題をふりまいていただけに、観光客も多かった。が、アメリカの同時テロ事件いらい米軍基地の多い沖縄は、観光客がすっかり減ってしまった。観光がおもな産業だけに、修学旅行客が十数万人も少なくなっとなげくことしきり。
 しかし、土地がらか、人々の心は暖かく、方言で、「ゆんさーれ(いらっしゃい)」と、どこでも親切な歓迎ぶりがありがたかった。

 
「平和の礎(いしじ)」の前に佇む河津みのる氏
 
 すっかり整備された平和祈念公園についた。どこからか、潮騒の音がきこえてくる。
 二OOO年七月、九州・沖縄サミットで、クリントン米大統領が来日し、メッセージを読み上げたところだ。
 海の波が寄せるように、幾重にもかさなって黒い御影石がならんでいる。
 子どもの背丈けほどだ。近づくと、ぎっしりと名前が刻みこまていた。
 「ああ、これが"平和の礎(いしじ)"、刻銘碑か」沖縄県人、県外の日本人、米国人、韓国人など二十数万人におよぶ名前だった。
 あの太平洋戦争で、唯一はげしい地上戦が展開されたところだ。
 当時の敵も味方も、一般住民も将校も兵卒も、国籍を問うことなく、すべての人が名が刻印されている。
 世界に例の見られない慰霊碑の形だった。
 二十数万人の生命の尊さ、その家族や親戚もあっただろうに。

                                         
■「平和祈念資料館」へ
平和祈念公園と赤瓦屋根を模した「平和祈念資料館」
 
 公園のなかに、レンガ色の屋根をかさねた、瀟洒な建物があった。それが平和祈念資料館だった。
 が、入口の前には、赤く錆びた本物の魚雷が大きく横たわり、激しかった沖縄戦争時を思わせた。
 一九四五年三月から九O日間におよぶ沖縄戦は、太平洋戦争で国内最大の戦闘で、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていたことを知った。
 ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追いつめれて自ら生命を断ち、ある者は飢えとマラリアで倒れ、敗走する日本軍人の犠牲にされる者もあった。
 入っていくと、当時のガマ(洞くつ)が再現され悲惨な写真や証言などが展示され、アメリカ側からの映像が上映されていた。
 年配者たちは胸にこみあげてくるものをおさえ、子どもたちは、はしゃげずに沖縄戦の実相にしばりつけられている。
 「この まななましい体験の前では、いかなる人でも 戦争を肯定し美化することはできないはずです。戦争をおこすのは たしかに 人間です。しかし、それ以上に 戦争を許さない努力のできるのも、私たち 人間ではないでしょうか」と、壁いっぱいの墨の筆字はよびかけていた

                                       
■「ひめゆりの塔」へ
 ひめゆりの塔は、緑の木陰に、自然壕としてあったものだ。
 十四メートルほどの深さ、はしごで出入りし、ここを病院として女子挺身隊がとじこめられていた。一OO人ほどいた一五〜二O歳の乙女らの多くはガス弾で悲惨にも生命を奪われてしまった。
 が、生存者が一一人いたのだ。彼女らが生き証人として、重たい口を語りついでくれたのだ。
 すぐわきに白い納骨堂があり、ユリの花などが献花されていた。「ひめゆりの塔」は、いくつかの小説や、映画でも扱われている。

「ひめゆりの塔」の前に佇む河津みのる氏
 
ひめゆりの塔のすぐ近くには資料館もあり、観光客むけのみやげ物店や食堂がならんでいた。
 昼になったので、沖縄ならではのソーキそばを食べる。豚の骨つきあばら肉を煮込んだスープだ。が、肉が脂っぽくはなく、そばも白くて美味だった。
 小麦粉に砂糖、ふくらしこを入れ、それに白ごま卵などを加えて、食用油であげた「あんだぎー」も食べた。
 野球のボールほどの大きさ、沖縄特産の昔ながらの手づくりだ。ほおばると、やわらかくほんのりとした甘味が口内にひろがった。
 さあ、つぎは「守礼の門」、そして首里城だ。


 
           世界遺産「首里城」へ