ー追悼ー 岡田 徹画伯(美術文化協会・元代表)

恵子美術館の恩人
       
垣花 恵子(恵子美術館・主宰)

※はじめに
 
この原稿は、「宮古新報」(2005年11月10日)1面の連載エッセイ欄に掲載されたものです。この度、岡田画伯のご逝去にあたり、加筆をして追悼原稿とさせていただきます。したがって年齢等の数字は、執筆時のものとなりますことをご了承願います。

T、岡田画伯の沖縄への思い             

 
沖縄を心に抱き続けながら、沖縄を安易に描くことをしなかった画家がいた。
 岡田徹画伯が、戦中戦後50数年に及ぶ沖縄への思いを込めて「さとうきび畑の歌―沖縄の悲しみー」を描いたのは、83歳の時だった。 胸に迫るその100号の大作は、岡田画伯から寄贈されて、今は恵子美術館に展示されている。
  美術館建設の話が具体化し始めた頃、私は美術文化協会の準会員から会員に推挙されたばかりだった。振り返れば恐れ多いことであったが、当時、美術文化協会代表として激務をこなされていた岡田画伯に電話をかけて、私は恵子美術館の構想をご相談したのだった。
 私は、「私が生まれ育った沖縄県の宮古島市には美術館がなく、私は大人になるまで本物の美術作品に触れる機会がありませんでした。それで、地元の子どもたちのために、宮古島に私設の現代美術館を造りたいのです」と話した。
 岡田画伯は私に、具体的な美術館の建物の規模や構造、運営方法を質間した後に、思いがけない提案をしてくださった。 
 「先日も『朝日新聞』のインタビューで話したんだが、実は僕は今、沖縄をテーマに描いているんだ。その作品が完成したら、恵子美術館に寄贈することにしよう。そして僕からも美術文化協会の中心メンバーに作品寄贈の呼びかけをしてあげよう」。
 岡田画伯は、恵子美術館への全面的な協力を約束して下さった。そして、岡田画伯の直接、間接の呼びかけに応えて、国内外で活躍する、美術文化協会の美術家の大作、数十人の寄贈作品群が誕生したのだった。 
◆岡田画伯から寄贈された「さとうきび畑の歌 [1]」(右側)、「標的」(左側)の前で記念撮影する子供たち

U、子どもたちへの思い

 かつて戦前戦後の一時期、小学校教員も経験していた岡田画伯は、1950(昭和25)年、まだ闇市のはびこる混乱した世相の名古屋で、「せめて美しい色の世界を、子どもの心に残してやりたい」という名古屋市議会議員の懇請を受け、爆撃で天井に穴が開いた保育園で児童画塾を開いた。
 それ以来、「日本児童美術連盟」、「全日本児童美術協会」の代表を歴任するなど、一貫して児童美術教育にも力を注いできた美術家だった。だから私の「宮古島の子どもたちに、本物の美術作品に出会える場所を造りたい」という美術館構想を深く受けとめて下さったのだと思う。
 そして1998年1月1日に恵子美術館はオープンした。恵子美術館は私の作品だけでなく、岡田画伯を始めとする美術文化協会の美術家の方々の寄贈作品、夫の友人画家達の寄贈作品が展示され、その展示作品の質の高さによって、読売新聞・夕刊1面でも大きく紹介されている。
 2000年1月1日、岡田画伯は「恵子美術館3周年記念の集い」に出席するために、寄贈美術家の近藤頼有子先生と共に来島、来館してくださった。
 「3周年記念の集い」の開催された宮古島の正月休みの時期は、いつも天候不順なことが多いが、岡田画伯と近藤先生のお二人が滞在された4日間の全てが見事に晴れ渡り、空も海も亜熱帯の色彩に満たされていたことがありがたかった。
 現在91歳の岡田画伯は入院療養中で、この時の恵子美術館訪問が、最初で最後となりそうなのが残念でならない。
 今からは想像も出来ないが、戦前のシュルレアリスム美術運動は危険なものとして、悪名高き特高警察からマークされていた。若き岡田画伯は、兵隊に召集された翌日、アトリエにあった全作品、全美術資料を没収され焼却処分にされている。
 岡田画伯が弾圧に抗して生き抜いてきた戦前からの絵画人生は、そのまま日本における前衛美術、シュルレアリスム美術運動の生き証人となっているように思う。
 岡田画伯は、「3周年記念の集い」に出席した1年後に、ご自分の各年代を象徴する貴重な大作数点と、所蔵していた友人、知人美術家コレクション作品を追加寄贈してくださったのだった。
 岡田画伯をはじめとする多くの美術家の方たちの善意に応えるためにも、恵子美術館では、小・中・高生の二回目以降の入館無料と、課外授業、修学旅行の入館無料を実施している。

                                               
◆「恵子美術館3周年のつどい」に名古屋から駆けつけてくださり、子供たちから花束や、手作りのレイで歓迎を受ける岡田徹画伯と、近藤頼有子先生の記念写真

岡田 徹画歴

                       
■ 岡田 徹、1914年名古屋市に生まれる。
■ 1939年に創立された<美術文化協会>に参加。
■ 1941年招集入隊中に自宅が特高警察によって捜索、全作品、記録などを不当に没収焼却される。
■ 戦後は度重なる<美術文化協会>の分裂を乗り越えて再建に努力する。
■ 1965年、日米加文化使節団長として渡米交流する。
■ 1967年、中日文化センタ−開校と同時に洋画部講師となり現在にいたる。
■ 1971年、「第1回中部国際形象展」(毎日新聞主催)に招待出品、以後連続出品する。渡欧。
■ 1974年、「第1回創炎展」(愛知県美術館)に賛助出品、以後現在まで出品。「第1回・東京展」出品。
■ 1975年、「朝日展」(朝日新聞主催)招待出品。「代表作家展」(名古屋・日動画廊)
■ 1977年、「昭和の前衛絵画展<中部のパイオニア展>」(ギャラリ−白善)。
■ 1979年、「ニュ−ヨ−ク美術文化19人展」(ニュ−ヨ−ク/アズマギャラリ−)。「第1回・中日展」招待出品。
■ 1980年、「ニュ−ヨ−ク美術文化23人展」(ニュ−ヨ−ク/アズマギャラリ−)。渡米。
■ 1981年、「抽象と幻想による海展」(神戸ポ−トピア"81)。渡欧。「名古屋市、ロスアンゼルス市交換美術展」招待出品。「岡田徹個展」(中日ギャラリー)。
■ 1982年、「美術の窓」創刊号から「美術時評」を10回連載。
■ 1985年、「東京モンパルナスとシュ−ルレアリスム展」(板橋区立美術館)に出品。
■ 1987年、「画業50年岡田徹回顧展」(名古屋・電気文化会館ギャラリ−)。記念画集発刊。
■ 1990年、「日本のシュ−ルレアリスム展」(名古屋市立美術館)に岐阜県美術館収蔵作品が展示される。
■ 1991年、「韓日現代美術作家展」(韓国・ソウル)出品。「岡田徹個展」(東京・セントラル美術館)。
■ 1994年、「国体のある風景展・第49回・国民体育大会特別展」(愛知県美術館ギャラリ−)。岡田徹自選展(名古屋市民ギャラリ−)。記念画集「岡田徹画集」が<生活の友社>より刊行される。
■ 1997年、恵子美術館に「さとうきび畑の歌 T」F100号、「さとうきび畑の歌 U」F30号を寄贈。
■ 2000年、「恵子美術館3周年のつどい」出席のため沖縄本島、宮古島を訪問。
2007年、12月4日、肺炎のため死去。享年94歳。

■美術文化協会代表委員。日本国際ア−チスト協会委員。創炎美術協会代表。全日本児童美術協会会長。中日文化センタ−洋画講師他を歴任。