ー垣花恵子論ー
花のような赤い地獄
                 みもとけいこ(詩人、評論家)


 「垣花恵子論」を始めようとして、白分自身のことを書くというのもおかしな話だが、私は、満一歳の誕生すぎから小学校三年の終わりまで、中国山地の山奥の村で、母方の祖父母に育てられた。その中国山地の山奥の村は、日本の多くの農村がそうであるように、浄土真宗の信仰の熱心な村であった。村に二つあったお寺の一方の正念寺のお坊さんは、私の同級生のマサキ君のお父さんで、子供会のお世話もしてもらっていたので、何かというとお寺に集められて、お堂で地獄の幻灯を見せられたのだった。お前たちが嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれて、煮えたぎったお釜の中に投げ込まれ、針の山を歩かされて、喉が渇いても水も飲めず、おなかがすいても何も食べられず、鳥のクチバシで突っ突かれ、鬼に金棒を持って追いかけられるという人間の感覚的な苦しみのすべてを描いた極彩色の絵。アジア・モンスーン地帯の底流に響きあう記憶としての文化。
 垣花さんの画集を初めて拝見したとき、言いようのない懐かしさに包まれた。私を育ててくれた祖父母、繰り返して聞かされた地獄の話、吸い寄せられて見た幻灯の原色。人間は地獄に生まれてくるのだと思う。存在することの、生理的な恐怖。海と海の青さへの恐怖。南国の太陽と、太陽の明るさへの恐怖。人と人が殺し合う愚かしさへの恐怖。恐怖が登場人物たちの表情を息苦しく歪める。その恐怖から逃れられるのは、赤ん坊の無垢と、あらゆる経験を経た後の、老人の達観だけだと思われる。
 垣花さんの絵の不思議さは、優れたすべての芸術がそうであるように、人問の愚かしさを断罪しないことだ。時には愚かしささえ美しさに変えてしまう。そこにはどれだけの愛が必要なのだろう。地獄と極楽がまるで当たり前のように、共存して見えるのだ。
 垣花さんは、だれも描かなかった光と闇を描くだろう。だれも描かなかった方法で。だから彼女の絵に「シュルレアリスム的」という西洋絵画の方法論からでた言葉は使わない方がいいと思うのだ。シュルレアリスムと聞いて私が違和感を覚えるのは、西洋絵画においては、「色彩」よりは「形」において思想的時代的展開がなされてきたことによる。垣花さんの絵は「形」においてよりむしろ「色彩」において又は「明暗」において意味を語る作家なのだと考えるべきだろう。
 遠い昔に見た光と影のような、アジア・モンスーン地帯を覆い尽くす闇の記憶、闇の匂い、闇の肌触り。その恐ろしさと懐かしさ。彼女は耳を澄ませて、感性の釣り糸をアジアの闇に垂らす。そうして垣花さんは、地獄を描けばいいのだ。もっと熱くて、もっと青く透き通っていて、もっと大きなものに繋がって行く通路。その個性と普遍性が出会うとき、懐かしいと私たちは感じるのだろう。
◆「恵子美術館」編集・発行、『すけっちぶっく』 2号より転載しました        

みもとけいこ氏の著作紹介
◆詩集に『わいんぐらす』、『花を抱く』(壺井繁治賞)、『フロッタージュ』、『リカちゃん遊び』、『<明日>の空』(最新詩集)
◆評論集に『愛したのは、「拙にして聖」なる者―漱石文学に秘められた男たちの確執の記憶』(愛媛出版文化賞)がある。
『<明日>の空』みもとけいこ詩集の紹介リンク
◆「恵子美術館」編集・発行、『すけっちぶっく』 2号