ー第22回・全国中学生人権作文コンテスト沖縄大会・最優秀賞「沖縄タイムス賞」受賞ー

「恵子美術館」ボランティアスタッフ宮里夢子さんおめでとうございます


偏見の壁をとかす力

                     宮里夢子(平良市・平良中学校2年生)

 私が初めてハンセン病のことを知ったのは手が植物にかぶれた妹のつきそいで、宮古南静園の皮膚科に行った時だった。
 私は宮古南静園の敷地の中に、細長い低い建物がたくさん並んでいるのを見て、妹に言った。
 「なんだか団地みたいな病棟だね。」
 すると、横にいた看護婦さんが、「あそこには、ハンセン病だった人達が住んでいるのよ。」と教えてくれた。
 「ハンセン病だった人達って、じゃあ、今は治ってるってことですか。それに入院じゃなくて住んでいるんですか。」と私は聞きたかったが、看護婦さんは忙しそうに向こうに行ってしまった。
 私は家に帰り、伯母からハンセン病が感染力の弱い皮膚病であることや、ハンセン病のらい菌が弱すぎるため薬の開発が遅れ、不治の病として恐れられてきたこと、戦後すぐにプロミンという薬ができて簡単に治る病気になってからも、先進国の中で唯一日本だけが四十五年間も長く隔離政策を続けたこと、そして、その政策が間違っていたことを、やっと昨年国が認めたことなどを聞いた。
 夏休みに入って最初の日、伯母が新聞のインタビュー記事を私に見せてくれた。
 「この宮里光雄さんという方は、ハンセン病の後遺症で指が変形していて碁石を持つのが大変だから、スプーンを使って碁を打たれるのよ。六段の腕前で、数えきれないほど宮古代表で県大会に出ていらっしゃるのよ。」 前から囲碁に興味のあった私は、私と同じ名字の宮里光雄さんに会いたくなった。私はハンセン病について深く知らないことで、宮里光雄さんに失礼な態度をとらないか心配だったが、伯母に頼んで、宮古南静園の宮里光雄さんをたずねることにした。
 宮古南静園の自治会長をしている宮里光雄さんは、自治会室で待っていてくれた。宮里光雄さんが優しい笑顔で迎えてくれたので、緊張していた私は、ホッとした。最初は、宮里光雄さんの手のことは全然気が付かなかった。それくらい雰囲気が明るかった。
 私は宮里光雄さんに、スプーンを使って碁を打っているところを見せてもらった。宮里光雄さんの両手は、第二関節のところから、内側にぎゅっと曲がっている。その曲がった指にスプーンをはさみ、碁石をすくいとって碁盤に乗せる。相手の方も昔ハンセン病だった方で、やはりスプーンを使っていた。手慣れていて何か新しいゲームのようだった。「囲碁は指先が最も注目されるのに、大勢の人の前でスプーンを使って碁を打つのは、最初勇気がいりませんでしたか。」と聞くと、宮里光雄さんは、「そんなこと聞かれたのは初めてだなあ。そうねえ、自分が気にしなければ相手も気にしないということもあるかもしれないね。それに囲碁は勝つか負けるかだから、対戦相手も勝負に集中していて、そんなこと気にならないんじゃないかな。そして親しくなると、お互い気にならなくなる。」と笑った。私はその通りだと思った。もし、私が宮里光雄さんの対戦相手だったとしたら、最初はびっくりするかもしれないけど、だんだんそんなことはどうでもよくなると思う。
 宮里光雄さんは、「私の場合、自分を磨き実力をつけていくことで、周りも認めてくれるようになった。」と話してくれたが、宮里光雄さんはいつも前むきに精いっぱい生き、社会の差別や偏見の壁を、自分の力で溶かしてしまった。
 私は、ハンセン病療養所では、子どもを生むことが許されなかったことや、監禁室があったことを本で読んだだけだが、宮里光雄さんの人生には、私には想像もつかない辛いことがきっといっぱいあったはずなのに、今、私の前でこんなに明るく笑っている。なんて強い人なんだろう、と思った。
 帰る前に、宮古南静園の奥にある、「いりまざの浜」という海に行った。
 私は、言葉に出せないくらい変な気持ちになった。私がよく海水浴に行く、前浜ビーチや砂山ビーチとは違う感じだった。不気味なくらいきれいで、天国ってゆうか、あの世にいるような感じがした。ここが、私がずっと住んでいた宮古の一部だなんて信じられなかった。こんなにきれいな海も、宮里光雄さんのような人達も、ハンセン病になったというだけで、病気が治ってからもずっと閉じこめられ、世の中から隠されてきたのだ。
 人生を奪われた人達が、この海を見ながらどんな気持ちで暮らしていたんだろうと思うと胸が苦しくなった。
 海は、その人達の悲しみを見つめていたから、宮古のどの海とも違う色をしているのかなと思った。