登家勝也牧師・「イラク訪問報告」(まとめ・伊藤明彦)
日本キリスト教会横浜長老教会の登家勝也牧師は、2003年10月6日(月)に出発しイラクを訪問、16日(木)に帰国しました。この報告書は、いくつかの報告集会で登家牧師が報告したものを、伊藤明彦(横浜長老教会長老)がまとめたものです。
<登家牧師イラク訪問の旅程>
10月6日(月)夜、羽田を出発。関西国際を経由(メンバーと合流)し、ドゥバイへ。
7日(火)朝、ドゥバイに着く。午後、ドゥバイを出発、アンマンへ。夕、アンマンに着く。
8日(水) 薬の購入、証明書の発行手続きなど。夜、2台の乗りあいタクシーでアンマンを出発。
9日(木)早朝、国境を越えてイラクへ。昼前、バクダットに到着。
10日(金)北バクダット変電所へ。夜、バクダッドの長老教会の金曜礼拝に出席。
11日(土)朝、サッカーボールを届ける。午前、バクダットの病院を訪問。夜、バクダッドの長老教会で懇談。
12日(日)午前、バクダッドの長老教会で礼拝。物資を託す。昼、爆発事件。午後、タクシーでバクダッドを出発。夜、バスラに着き、宿泊。
13日(月)午前、バスラの病院を訪問。午後、バクダットに戻り宿泊。
14日(火)朝、バクダッドを出発。夕、アンマンに着く。薬の購入。
15日(水)午前、アンマンを出発しドバイへ。
16日(木)未明、ドバイを出発。夕、関西国際に着く。
登家牧師は報告にさきがけて、聖書を3か所読んだ。マタイによる福音書6:33「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」同7:7〜8「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」同20:25〜28「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」そして登家牧師は「特に6:33の願いを持ってイラクに行ってきた。小さいものとして小さいものに仕え、主の御国の義にあずかる。これらのみ言葉の注釈のようなイラク旅行だった」と語り、次のように報告をした。
<イラクを訪問した一行>
6日(月)夜10時30分、関西国際空港を出発し、翌7日(火)ドゥバイへ到着。その日のうちにドゥバイを出発し、現地時間午後4時半頃にヨルダンのアンマンに着く。 一行は登家牧師の他、木村公一牧師、楠田昌子さん、荻野仁司さんの4人。木村牧師は2003年3月14日から4月15日まで、いわゆる「人間の盾」としてイラクのバクダッドの北変電所に滞在していた。このときイラクの子どもたちと親しくなり、サッカーボールの約束をした。この経験からマスコミに出る機会や講演会の依頼も多かった。共演した国連大使のアグネスチャンさんから「イラクの人たちのために」と、また「長崎の夢見る子ども基金」からも募金があった。福岡のユネスコ協会からは竹馬と竹とんぼを託され、東京の高校生が渋谷で募金活動をしたサッカーボールも持っていった。楠田さんは歯科医。医学博士だが薬学の知識も多い。木村牧師の話を聞きイラク訪問を決めた。ジャミーラ高橋さんやバクダッドの病院と事前に連絡をとっていて、イラクに必要な薬品のリストを作っていた。荻野さんはピースウォークの平和運動家。
登家牧師は2003年6月に沖縄で、イラクを訪問した日本基督教団の平良夏芽牧師の報告を聞いた。イラク出撃は沖縄からということだった。湾岸戦争の時もアフガニスタン攻撃の時も、沖縄からアメリカ兵が出発する。アメリカが戦争するたびに、沖縄の基地が重要視される。この沖縄の苦しみに対し日本(やまと)人の多くは無関心だ。そして日本キリスト教会の者もイラクに派遣される必要があると感じた。8月15日の東京の集会で木村牧師に会いイラク訪問の計画が進んだ。登家牧師がイラクを訪問する事を聞いた教会・個人から献金が寄せられ、それを携えていった。 このように少しずつちがう動機を持った4人がイラクの人を訪ねた。
<アンマンでの準備>
7日(火)夕、アンマン空港からアンマン市街へ。タクシー(レンタカー)は運転手を入れて6人乗りのもの。途中、オリーブやイトスギの木などを見かけた。宿泊は、ファニチャード・アパートメントと呼ばれるアパート式のホテル。日本でいうウィクリーマンション。2つの部屋にはベッドがそれぞれ2つ、応接間とキッチン・洗面所・トイレなどの設備がある。一行はまずイラクに持っていく薬をどこで買うか検討。ホテルの支配人が、ホテル裏の薬店を紹介してくれた。
8日(水)午前、薬店に行く。薬店のハイタム・オマールさんにアドバイスを受け、必要な薬を約80万円分購入。オマールさんは「わざわざ日本から来てくれたことに敬意を表す。私もメンバーに入れてくれ」と薬を安く売ってくれた。
次にヨルダンの情報省の役所であるセントラルプレスセンターに行った。一行はジャーナリストとして国境を越えようということで、その証明書を作ってもらうためだ。実際、イラクの情報は正しく伝えられていない。例えば、「国連や米軍に対してイスラム教徒が反発し、自爆テロを起こしている」などと報道されているが、実際は過激派が行なっていることで、イスラム教とは直接関係は無い。イラクはイスラムの人は多いが、信教は自由でありキリスト教徒も3%いる。一行はジャーナリストとしての役割を持っていた。プレスセンターはアンマンインターコンチネンタルホテルの中にあったが、窓口は閉まっていた。買い物に行き、もう一度訪ねると開いていた。係員は「今日は来ない予定だったけど行ってみようと思ったので来てみた。そうしたらあなたたちが来た」と言いジャーナリストの証明書を発行してくれた。 その他の準備もした。もって行くものは購入した薬の他、竹馬・竹とんぼ・サッカーボール30個・粉ミルクなど。タクシーは2台必要だった。すべての準備が終わり、夜11時、4人と荷物を積んだ2台のタクシーはアンマンを出発した。
<バクダッドでの出会い>
9日(木)朝、国境を通過するために4つのゲートを通った。そのたび渋滞した。朝6時国境を通過。イラクに入るとゲートはなかった。道はよくできている。砂漠を過ぎてバクダッドに近づくと左右に高地がある。ナツメヤシやアシを見、街に入る。いくつもの川を越えた。イラクは砂漠の国ではなく、農業の国であることがわかった。実際、食事でサラダを注文すると山盛りで一人では食べきれないほどだった。午前10時30分バクダッド到着。宿はやはりアパート式ホテル。バクダッドホテルとは、裏で向い合った。 一行の目的の中に、村岸さんという女性に会うということがあった。この女性は人間の盾としてイラクに入ったまま、その後もイラクに滞在していた。その人の消息を確認し、ジャミーラ高橋さんから預かってきた手紙とお金を渡すのだ。以前滞在していたというホテルには、すでにいなかった。分っていることは中華料理店で働いているということ、ただひとつ。一行は滞在中、食事は全部中華料理ということにして、入った店で村岸さんのことを聞いてみることにした。さっそくこの日の夕食はアルファナルタワーの中華料理店で。店に入って最初に会ったのは、その店でウェートレスをしていた村岸さん。驚くことに初めに入った店で、尋ねる村岸さんに会ったのだ。村岸さんから、車の手配のことや訪ねる病院のことなど、バクダッド市内の情報を得た。
この店で2人の日本人女性が食事をしていた。越谷の佐藤好美さんと、名古屋の小杉陽晃さんだ。「こんばんは」と日本語で挨拶を交わす。席をともにして話をすると、「写真を撮るなどしていたが今後の予定はない」ということで、2人が一行に合流することになった。この後、小杉さんは途中で帰り、佐藤さんは最後まで同行し、その後もしばらくイラクに滞在した。
<北変電所>
10日(金)8時30分、6人になった一行は北バクダッドの変電所に行った。2人の守衛は銃を持っていたが、説明するとすぐ通してくれた。北変電所のアドゥナンさんの所には変電所の所長・電気局の長官のサレーさんが来ていて、一行を歓迎してくれた。サレーさんは「電気事業は発電と送電、変電、配電が仕事。配電については、普通の家庭には最も安く電気を供給する、病院や学校・役所などは次に安く、そして会社や工場には高い値段で供給する。イラクは農業国、そして石油の国。決して工業国ではない。これからも工業国にするつもりはない。これからは周辺の国々と協力し発電・配電の共通システムを作っていきたい」と話をしてくれた。周辺の国々と協力するためにはまず平和であることが必要だ。この人は、今後のイラクで大きな役目を果たす人であり、このような人がイラクの国を再建していかなければならない。 食事の時、登家牧師は「私たちはアブラハムの子。アブラハムのように私たちも神が行けと言われるところに行く。そして私たちはここに来た。そして私たちはすばらしい出会いという祝福を得ている」と話をした。サレーさんは「イスラムが大切にしている3つのことがある。隣人のためによき人であれ。神のためによき人であれ。無理解の人と戦え」ということを話してくれた。この3つ目の「無理解の人と戦え」は、無理解な人が理解してくれて自分よりよい人になって欲しい、たとえその人が自分に対して悪意を持ち攻撃的な人でも自分より善良な人になることを願うということ。だから力で戦うというのではなく、非暴力であくまでも話し合う、説得する、神にそうなることを祈るということだ。
<サッカーボール>
木村牧師が以前、人間の盾として北変電所にいたときに、イラクの子どもたちと「次に来るときはサッカーボールを持って来る」と約束をしていた。アドゥナンさんは、約束したハサン君やフセン君という名と彼らの顔とが一致しない。「12歳で、背たけはこれくらいで、体格は・・・」いろいろたずねて、ついにハサン君、他3人の少年に再会、約束どおりサッカーボールを手渡した。ハサン君は目を丸くして「信じられない」と言う顔でサッカーボールを受け取った。FIFAのサッカーボールだ。ハサン君は「じょうだんの約束」と思っていた。そう自分に言い聞かせあきらめていた。他に、この話を聞いた東京の高校生が「イラクに自衛隊ではなくサッカーボールを贈ろう」と募金運動をし、これで30個のサッカーボールを日本から携えて行った。この半分の15個のサッカーボールをこの地域に住む子どもに贈ることにした。イラクはサッカーが盛んだ。しかし戦争でボールがなくなってサッカーができない。この周辺には子どもたちのサッカーチームが10ほどある。うまくボールが分けられるように、アドゥナンさんやサレーさんにお願いした。
夕方、バクダッド長老教会を訪ねた。翌日牧師と懇談する約束を得て、7時から行なわれた金曜礼拝に参加した。イラクは金曜が休日なので金曜日にも礼拝が行なわれている。
<バクダッドの病院>
11日(土)朝、再び北バクダッドの変電所に行き、15個のサッカーボールを届けた。くじで選ばれた15人の子供にサッカーボールを渡した。サッカーボールは1個あれば何人も一緒に遊ぶことができる。別れのとき、サレーさんに祈ってくれるよう頼んだ。サレーさんは「わかりました。祈る前にきよめてきます」と20分ほど席を立った。そしてサレーさんは、旅の安全と祝福を敬虔に祈ってくれた。荻野さんはクリスチャンではないが「深い人間の出会いを味わった」と述べた。 一行はバクダッドの2つの病院を訪ねた。ひとつ目の病院はアポイントを取らなかったため、入ることができなかった。特に援助の必要もないようだった。午前10時に着いた2つ目の病院は、検問は厳しかったが、目的が伝わるとすぐに理解してくれて中に入ることができた。
まず歯科に行き薬を届けた。事前に楠田さんが連絡をとっていた。次に小児科病棟に行った。説明してくれたドクターのムハマド・ダハムさんは「劣化ウラン弾による小児の白血病」のことを何回も言っていた。このことについてアメリカは「因果関係がない」としらを切っている。今後、国際裁判に訴えることが必要。小児の白血病はかなり薬で治る、しかしその薬がない。感染症を防ぐため清潔さを保つことと個室が必要、しかしその設備はできない。人手不足。特に通う道が危険なので、女性の手が足りない。子どもたちはぐったりしていた。持ってきた薬を託し、他に必要な薬の情報を得た。イラクの医師はレベルが高い、医者そして人としての意識が高いと、感じさせられた。
<バクダッド長老教会>
午後7時、長老教会を訪ねた。この教会は市民生活相談活動と医療事業の準備中で、そのリーダーと牧師を交えて懇談することができた。その中で、福岡のユネスコ協会から託された竹馬と竹とんぼ、またアンマンで入手した粉ミルク注射用の器具を託すことになった。そして残りの15個のサッカーボールは、この教会の日曜学校に贈ることになった。日曜学校に来る生徒は300人。休みの日が金曜なので、金曜に日曜学校が行われる。それでも名前は「日曜学校」。「サンディスクール オンフライディ」ということだ。ちなみにイラクには6個ないし9個の長老教会があるとのこと。バクダッドにはアラビア語で礼拝する教会とシリア語で礼拝する教会がある。人数のことは興味がない模様。登家牧師が長老主義の教会の牧師であるということから、別れるときに「祝祷して欲しい」と求められ、登家牧師は日本語で祝祷をした。この教会を訪問して「イラクの平和は、アジアの平和。それは日本の役割だ」と感じさせられた。 ホテルに帰り、竹馬の修繕。縄なえができるのは登家牧師だけ。他のメンバーはサッカーボールに空気を入れた。また竹馬乗りの練習もした。
<主日礼拝>
12日(日)9時からバクダッド長老教会で主日礼拝を守った。アラビア語だった。言葉は「アーメン」と「ハレルヤ」しか分らなかった。しかしその抑揚から聖書のどこを読んでいるかがわかった。また「主の祈り」や「使徒信条」もわかった。英語のわかる婦人が隣に座ってくれて、説教の内容を伝えてくれた。確かに長老教会の礼拝だった。礼拝出席者は250名ほど。日曜日は休日ではないので、かなり努力して礼拝に集まっているのであろう。
礼拝後、竹馬と竹とんぼとサッカーボール、粉ミルク、注射器具をホテルから運んだ運転手は青年会の会長。この会長に、竹馬の乗り方を見てもらった。帰りながら振り返ると彼はさっそく竹馬に挑んでいた。
<爆発事件>
12時40分、ホテルに帰り出発の準備をしていた。コーヒーを飲むために湯を沸かしていた。そのとき、バンバンと大きな鋭い音がして、建物に大きな振動があった。12時50分ころ、裏で向い合うのバクダットホテルを標的にした2台の自爆テロの車が爆発したのだった。1台目はバクダットホテルの前で爆発。もう1台の車は、狙ったバクダットホテルに行き着く前の、一行が宿泊したホテルの前で爆発した。日本の報道では「バクダットホテルにはイラク警察や統治評議会のメンバーがいた」ということだったが、現地ではこれとはちがい「イスラエルの諜報部員がバクダットホテルにいて、それが狙われた」という話を耳にした。朝日新聞に掲載された写真もバクダットホテルではなく、一行が泊まったホテルだった。ホテルの支配人と警察が部屋に来て、「部屋から出ないように」と言った。取り調べが行なわれたなら、出発は大幅に遅れる。一行はコーヒーを飲んで、しばらく落ち着くことにした。しかし1時間もたたないうちに、今度は「すぐに出発するように」とせかされて出発した。外に出ると宿泊したホテルもガラスが割れるなど大きな被害を受けていた。しかし宿泊した部屋には影響はなかった。イラクに来て初めて米軍兵の姿を見た。戦車を置いて道路を封鎖していた。砂塵がもうもうとしていた。いったん砂塵が舞うとなかなかとれない。一行は少し離れたところからタクシーで、イラク南部のバスラに向かった。
<バスラの病院>
夜9時バスラに着き宿泊。バスラはクエートに近いため、「お金を持って行けば必要なものは調達できる」と聞いていた。しかし事実は違った。アメリカ寄りのクエートに、イラク人が入ることはできないのだ。翌13日(月)午前9時頃、バスラの産科小児科の病院に着いた。ここでも小児の医療が困難である事を聞く。帝王切開が必要でも針も糸もない。この病院に診察に来た妊婦は希望にあふれ明るい表情だった。しかし難産になれば母子ともに死に至ることが多いのだ。木村牧師は「失礼なことを伺うけど、あなたの給料はいくらか」と、話をしてくれたドクターのムハマドさんに尋ねた。すると「120USドル。しかも3か月も支払われていない」ということだった。確かにムハマドさんは顔色も悪いし元気も無い。普通の暮らしをするためには300USドルほど必要だ。北変電所のアドゥナンさんは250USドルだ。2人とも国からの給料である。統治評議会が医療よりも工業化の方に力を入れているのか、または医療には力が及んでいないのか・・・。「献金する方がいいか、薬をおくる方がいいか」と尋ねると、すぐに「薬」という返事だった。自分の生活よりも患者が大切なのである。そこで必要な薬のリストを作った。もちろん針も糸も必要だ。午前10時40分頃、バスラ・ティーチング・ホスピタルを訪ねる。この病院は産科小児科病院とはちがい、世界各国のNGOのおかげで充分に援助は満たされているようだ。意欲的な計画についての説明を聞き、若干の寄付金を贈った。
<2人に託して帰国>
午後7時バクダッドにもどり、翌14日(火)の早朝バクダッドを出発し、アンマンに戻った。午後6時、ホテル裏の薬店でオマールさんと綿密に相談をし、薬を約150万円分購入した。バクダッドとバスラの病院にこのトラック2台分の薬を届けることは、残る荻野さんと佐藤さんに託した。その後、薬は無事届けられたという報告があった。3人になった一行は15日(水)午前10時アンマンからドゥバイへ。16日(木)午前2時、ドゥバイ発。日本時間の夕方4時半頃、関西国際空港に到着、無事帰着した。ホテルに落ち着くと日本キリスト教会大会の会場から、武田兵次郎長老と渡辺信夫牧師などから電話をいただいた。
<イラクの人たち>
イラクの人たちは優しい人たちだった。車での移動中ドライブインなどでお茶を飲んでいると、差し入れが次々に並んだ。料金を支払う時も「日本から来てくれてありがとう。これは私からの気持ち。プレゼントだ」と胸に手をあてて優しい顔で言ってれた。イラクの人はアラブ人。東洋と西洋の間。お互いに目を見て話しをしている時、アジア人同士と実感した。日本で報じられているような人たちではない。イラクの警官(IP)も、銃は持っているが、「ごくろうさま」という意味で手をあげてあいさつすると、ニコニコして手をあげてあいさつを返してくれた。役所の人も親切だ。イラクの人はちっとも怖くない。日本は人が怖い。
神はこの旅でよい人々と出会わせてくださった。神がイラクにも御国を来たらせて、義を行なってくださっていることを実感した。北変電所のサレーさんは、「無理解の人と戦え」というイスラムの教えを話してくれた。話し合うことで、違いを超え理解者にする。互いに深めあうことで問題を解決する。サレーさんは変電所の所長なので、仕事については指示する指示されるという関係がしっかりしている。だから上司として指示をする時、部下は忠実にことを行なう。しかし話し合うときは上下関係がなく平等、対等に話をしていた。神のもとに平等であるということが実現していると感じられた。
イラクはアメリカに占領されている。日本人は1945年8月15日を境に、人が変わってしまった。しかしイラクの人たちは、アメリカに屈していない。ポリシーがあり、意志がある、アリババはいるが、全体は堕落していない。気力を失っていない。すぐれた人材がイラクにある。イラクの人たちに主権を返せば紆余曲折があっても自分の国を立派に立て直すことができると感じた。米軍には出て行ってもらいたいという、最大の問題からテロが起こる。サッカーボールを受け取った子どもが「サッカーボールありがとう。でも兵隊さんはいりません」と言った。他の人も「アメリカが日本にしたことを忘れてはいけない」、「アリババナンバー1はアメリカ」と言った。イラクの人は、平和構想を持っている。みんなしっかりしていて、自分たちで復興を成し遂げようと思っている。
<今後のこと>
今後、大切なことは、イラクの人たちがしている復興を協力して一緒にするということだ。しかし遠くにいて支援するだけでは、うるおっている所がますますうるおうだけだ。バスラのティーチング・ホスピタルは、産科小児科の病院とは違って、薬は足りていた。研究施設の拡充が必要ということだったので献金をしてきた。どうしてこうも違うのか。どうして同じ町にあって、うるおう所とうるおわない所があるのか。それはこの病院には大きなNGOの支援があるからだ。現地に行かないで日本にいたままお金だけ送っていると、日の当たる所はますます当たり、日陰はいつまでも日陰である。そしてNGO・団体のポリシー、方針、計画などが、すべき支援の妨げになっている。自分たちがやろうとすることが先にあると、すべき支援が見えなくなる。またその団体に多くの賛同者がいればいるほど成果やネームバリュー、能率が大切になる。すると形が残る物、後から報告して賛同者を満足させるものにお金を使い、消耗品には使われなくなる。
キリスト者に求められていることは、日の当たっていない所の支援。小さなグループが、もっと小さな所、日の当たらない所の支援をすることが大切。費用の半分が渡航にかかっても、やはり行くことが大切である。イラクの人と出会い、イラクの人と相談し、イラクの人から注文を受け、必要な物を届ける・・・。神の義の働きに応えるとしたら、主イエスが言われたように小さいものとして小さいものに仕えるということなのだ。
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