ー「人間の盾」として米英のイラク戦争に反対した木村牧師の「自己責任論」ー
「迷惑」とは誰のことか:
イラクにおける日本人拘束事件をめぐる政治倫理について
木村公一


 イラクの武装グループに拘束された5人の解放に尽力したイラクの聖職者たちは、この事件を次の三つの要因によって起ったことと言明した。
 それは、@ イラク民衆に対するアメリカ軍の過酷な占領政策、A 現在も続行する米軍によるファルージャの大虐殺、B自衛隊の派兵をもって米国のイラク侵略を支持する小泉政権への怒りであった。
NGOとフリー・ジャーナリズムの意義
日本の政治家は日本が一方の戦争当事国であることの認識が希薄である。戦争当事国は常に政権の「利害」や「国益」(多くの場合、その実体は「私益」である)にとらわれるために、客観的に事態を把握できない。それゆえに、国連のガイドラインでは、軍事組織は直接的な人道支援をすべきではないという、人道活動と軍事行動を明確に区別する基準を設けているのである。紛争地域で中立な立場で人道支援できるのは武装しない民間組織なのである。政府による退避勧告がでるような危険な地域であるからこそ、そこで何が起こっているかを伝えるジャーナリストが必要なのである実例をあげれば、この文書を書いている4月18日現在、アメリカ軍の報道によれば、イラクのファルージャでは停戦が続いていることになっている。しかし、ファルージャに留まっているNGOのダール・ジャマイルのレポート(Anti War Com)によれば、停戦は存在せず、米軍狙撃兵が動く人間は子どもであろうと女性であろうと無差別に撃ち殺し、600人もの民間人が虫けらのように殺されている。わたしがこの報道に触れえたのは、このような危険地域に軍隊や政府の保護下から距離をおいたフリーの報道者が存在したからである。危険な地域にこそ、武器をもたずに人道支援する民間組織の活動は必要なのである。
国益とは何か
 日本社会では権力筋から、拘束が解かれた5人の青年たちを「国に迷惑をかけた」、「自業自得」などというデマがものすごい勢いで発信されている。ここで冷静に考えてみよう。5人はいったい誰に迷惑をかけ、どんな国益を損ねたのか。アラブ世界をはじめ外国の多くのメディアは、これら5人の日本人青年が日本の好感度を増したと評価している。外国人から見た日本社会の特徴といえば、「汚職に明け暮れする政治家」、「背広にネクタイの制服を着たビジネスマン」、「私的領域に閉じこもる若い男女たち」であろう。ところが、この事件を契機に、日本にも自己を犠牲にしてイラクの困った人々を助けようとしている若者が少なからず存在することが明らかになった。これを国益と呼ばないで何と呼ぼうというのか。ブッシュ政権との心中政策を推進する小泉首相こそが、イラク民衆のために働く日本人民間人を危険な目にあわせ、日本の国益に甚大な被害をもたらした張本人として責任を追及されるべき人物なのである。
「自己責任」とは何か
自己責任とは、本来、自律した個人が自らの責任で社会活動をすることを意味する。5人は自国の政府が自衛隊派兵によってイラク民衆を裏切ったという負債感をイラク民衆に対して持つ自己責任をもった青年たちであった。だから日本大使館の退避勧告を拒否して、自己責任を引き受けてイラクを訪問し、滞在する道を選んだのである。彼らが「反省しているのは」、自己責任が希薄であったということでなく「手法の甘さによって本来の目的が果たせなかった」(安田純平氏)ことなのである。彼らは自らに襲い掛かった悲惨そのものについて日本政府に直接的な法的責任を求めてはいない。日本政府の問題は、米軍の国際法違反の戦争とイラク民衆に対する野蛮な戦闘を支持した政治責任の放棄であり、領事法に規定された邦人の生命と財産の保護義務のすり替えなのである。この「保護」の領域においても、≪民≫は≪官≫の憐れみにお世話になっているのではない。≪民≫と≪官≫は社会契約によって、この保護規定が≪官≫の法的責任であり、≪民≫の法的権利であることを定めたのである。したがって、フリーのジャーナリストやNGO要員が紛争地域で拘束されたからといって、≪官≫が「迷惑をかけるな」と≪民≫を非難する法的根拠はどこにもない。政府はただ、領事法にしたがって保護義務を果たすのであって、それが「迷惑」と感じるなら、その官僚は辞任すればよいのである。自己責任とは≪民≫が自己に課する自覚倫理なのであって、≪官≫が≪民≫に要求する規範倫理ではない。≪官≫が問題とすべき自己責任とは、昨年秋に二人の外務省職員が何者かに殺された事件で、二人を危険な地域に出した上司の責任であり、自衛隊をイラクへ派兵したことによって、日本の民間人を危険な目に合わせた小泉首相の責任である。したがって、日本政府が要求した「自己責任」論は、拘束事件が自衛隊の撤兵という世論形成につながらないようにするための「広報活動」の一環であるに過ぎない。
むすび
「迷惑・自己責任論」は、喩えて言えば、勤め帰りに強盗に襲われた女性に「夜道を歩く女が悪いのだ」と被害者を非難するスケベイな親爺に似ている。それにしても、「自衛隊はイラクの治安維持のために派遣されている」とか、「撤退する理由なし」とか、「テロリストを相手にせず」などの妄言は、チンタオ、サイパン、グアムへの出兵による「第一世界大戦への参戦(1914年)」、ロシア革命に干渉した「シベリア出兵(1918年)」、一兵士の「行方不明」を理由に華北へ侵攻した「盧溝橋事件(1937年)」の際の詭弁とどこか似ている。こうした日本政府の対応は日本の民衆社会とイラクの民衆社会の間に情報と交流の隔離壁を築こうとするシャロン流の危険な政策に他ならない。非武装による安全保障の現実性と正当性を改めて教えてくれたこの度の拘束事件は、日本に次の二つの選択を提示している。第一は、日本政府が自らの失政を認めて自衛隊を撤退させるか。第二は、自衛隊を武装解除して救援隊に衣替えするかの選択である。さもなければ、イラクの自衛隊は殺すか殺されるかの戦争の論理に転げ落ちることになるであろう。Ω
◆木村牧師の、「拘束日本人5人に対する自己責任論」への反論は、新聞テレビのマスメディアの論調とは違った説得力のある斬新な反論であり、多くの人々に知ってもらう価値のあるものだと考えて掲載させていただきます。木村牧師の反論をメールでお知らせいただいた伊藤明彦(横浜長老教会長老)氏に感謝申し上げます。「恵子美術館」サイト管理人・山田八郎