ー山田八郎(「恵子美術館」広報・企画担当)美術評論、インタビューの部屋ー
岡田 徹ロングインタビュー
(インタビュー・山田八郎『すけっちぶっく』編集人) |
僕が歩んだ 戦前、戦後のシュールレアリスム絵画のこと
■洋書で本場のシュールレアリスムと出会う ☆今日は本誌のインタビューのために貴重なお時間を割いていただいて、誠に有り難うございます。岡田先生については、すでに植村鷹千代さん他の優れた美術評論家の方々が、作家論や作品論をお書きになっておりますし、また『美術の窓』(一九九三年九月号)では、一九ページ(カラー図版ページを含む)に渡る一井健二編集長との対談などもありますので、本誌のインタビューとの内容の重複を恐れるのですが、今まで比較的に突っ込んで論じられていない戦時下の、画家としての生き方の問題や、私共の「恵子美術館」にご寄贈いただいた「さとうきび畑の歌」(1)、(2)、を描く経緯等について、時間の許す限りお聞きしたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。 ☆岡田先生は戦前にシュールレアリスム絵画の影響を受けられて、それ以後今日まで名古屋を地域の拠点として、「美術文化協会」を全国活動の拠点として、海外との交流にも積極的に力を注いで作家活動をしてこられたわけですが、年譜を読みますと一九三一年、三二年と「フォーヴ美術展」に入選しています。そして三五年から「アバンガルド展」(アバンギャルドの意味)他の前衛美術展に出品し、三八年、三九年と「独立美術展」に入選しておられます。一九三〇(昭和一〇)年代当時、シュールレアリスム絵画は日本では馴染みがなかったというか、知る機会が少なかった時代に、どういう経緯でシュールレアリスム絵画と出会ったのでしょうか。
岡田 徹僕がシュールレアリスムの洗礼を受けたのは、一九三〇年代の半ばから後半にかけてだわな。当時の日本の洋画界はまだ「フォーヴィズム」の全盛のころで、。僕もそれで初めは出品したりもしたんだわな。 その頃、たまたま芸術に関心を持っているお金持ちのS君が、シュールレアリスムの美術書をフランスから取り寄せて持っているということを聞いたんで、僕はS君の家に押しかけて行って『カイエ・ダール』というフランスの美術書を観たんだよ。 その『カイエ・ダール』という洋書は、一冊全てシュールレアリスムの作家の紹介になっている本で、記事の内容はフランス語で判らんかったけれども、カラーの図版なんかが一杯有って、随分勉強になったんだよ。本場のシュールレアリスム芸術とはこういうものか、とねショックだったわな。 ☆『ミノトール』(一九三三(昭和八)年創刊)というシュールレアリスムの雑誌は、今から十数年前の『美術手帳』で特集が組まれて紹介されましたので知っていましたが、『カイエ・ダール』という雑誌は名前しか知りませんでした。当時の日本では希少な洋書だったかもしれませんね。ところで『カイエ・ダール』で知ったシュールレアリストの画家を含めて、当時の岡田先生はどの画家に一番の関心を持たれていたのでしょうか?
岡田 徹最初はエルンストだな。ダリよりもエルンストの方が良かったわな。 今はダリがシュールレアリスム画家の代表みたいに知られているけれども、絵画におけるシュールレアリスム運動の中での、エルンストの役割は大きかったし、当時の僕なんかには刺激的に感じたんだわな。 今は現代絵画と言うと、シュールレアリスム風の幻想絵画が普通に見られるようになっているけれど、それら現代絵画の殆どが、根本の哲学が抜け落ちた、キャンバス上の表現技術だけの幻想絵画になっとるんだわな。それは一九三〇年代当時にフランスなんかに遊学して、シュールレアリスム絵画を描きだした画家なんかでも、ほとんどの連中は表面技術だけを見て、マントだけを着て、シュールレアリストになったつもりで帰ってきた画家が多かったんだわな。「美術文化協会」の中心的創立者のFさんなんかは、比較的によく勉強してきたと言われておったけれどね・・。まぁ、お坊ちゃん育ちだからというわけでもないんだろうが、シュールレアリスムの根本の、哲学の部分に甘さが感じられたんだわな。だから戦争中の弾圧の時にも、わりと簡単に妥協したりするわけなんだよ。 後で聞いた話しでは、一緒に逮捕されたTさんの方は取り調べの特高と論戦もしたりして、頑張ったのに、Fさんはだめだったらしい。 差し入れに何度も通った白木正一君の話では、劣悪な留置所暮らしがFさんには耐えられなかったようだと言っておったよ。 そのFさんの精神的甘さが、戦後の「美術文化協会」の分裂騒動の時にも、再び利用されることになるんだよ。結局は「美術文化協会」の大半の画家が時局迎合の絵を描いたり、中には積極的に戦争を鼓舞するような絵を描く画家も出てきたんだわな。 僕は当時も今も共産主義者じゃないですよ。しかし画家としての信念としてね、弾圧されたからって、急に今までと違う画風に変わって、戦争を鼓舞する絵なんか描けませんよ。そこが画家の生き方の問題であり、哲学の問題なんだわな。白木正一なんかも同じ思いだったと思うわな。
■戦前の美術家弾圧について ☆岡田先生の年譜を読むと、「1941年/□3月5日、福沢一郎、美術評論家の瀧口修造(美術文化協会の中心的創立メンバー)の二人は検挙され身柄を拘束された。阿部展也が名古屋にきて「時局の情勢は緊迫化して我々の芸術活動も危なくなってきた、近く軍の仕事をする」と語る。□4月、第二回美術文化展「牽牛と織女」出品。この作品は時局に添わないと撤回され陳列されなかった。□10月、吉川三伸(岡田氏の同志的友人画家)、江川警察特高に検挙拘束される。□10月21、応召。三島野戦重砲第九部隊に入隊。□10月23日、北区芦辺町の自宅が特高警察によって捜索、昭和16年(1941年)以前の全作品、記録など没収される。友人、故・福原武夫の遺作も証拠物件として没収。偶然にもアトリエ外にあった小品数点が没収を免れた。その作品四点は現在、岐阜県立美術館に所蔵されている。」〔()内は山田注〕となっています。 また、当時のことを詳細に聞き書きしている宇佐美承『池袋モンパルナス』によれば、福沢さんや、瀧口さんの逮捕投獄という文化弾圧は、東京を中心とした美術文化協会の中心メンバーに大きな衝撃と恐怖を与えて、卑屈な自己規制による作品制作だけでなく、第二回展の審査においては「当局の検問にひっかからんように絵のええ悪いと関係なく無難な作品を選ぼういう雰囲気になったんやな」(小牧源太郎)「シュールふうのもの、寓意的なもの、誤解されそうなものをはずしたんです。十点以上はずしたでしょうか。画題の書きかえもやりました。/略/搬入するときから官憲が張りこんで監視してましたよ」(吉井忠)という時代状況の中で、どうして岡田先生は画家としての信念を貫けたのか、福沢、瀧口両氏の逮捕弾圧を知った後も、どうして「牽牛と織女」のような陳列を拒否されるような作品を描くことができたのかお聞きしたいと思います。すでに身の回りを特高警察が監視している状況の中で、弾圧されることへの恐怖はなかったのでしょうか。
岡田 徹あの当時、弾圧が恐くないといえば嘘になると思うが、権力の理不尽な弾圧に対して、僕は、なにくそって気持ちも強くなるんだわな。 特攻警察の立会いで入選作を審査した「美術文化」の第二回展で、「陳列撤去」となった僕の「牽牛と織女」は、画面中央に大きな牛が描いてあって、その牛の背中が抉れて血が流れている作品だから、審査の時に反戦の絵だとしてクレームがついたらしいんだわな。 僕は共産主義者でも宗教者でもなかったんだが、多くの画家たちのように、弾圧されたからといって画風を変えようなんて気はなかったわな。それは画家として当然の生き方だと思っとったんだよ。それと僕は、人間中心主義というか、人間の命を大切にする考え方みたいなものを、母親や、「一燈園」の影響で、考え方の根底に持っていたんだと思うね。 当時はあらゆる情報が統制されていたから、ほとんどの画家と同じように、日本のやっている戦争が侵略戦争だなんて、そんなはっきりした認識はなかったんだが、人間が人間を殺し合う戦争には嫌悪感をもっていたんだな。だから戦争を賛美したり、鼓舞したりする絵を突然描くのは、画家の創作態度して承服できないんだわな。 なかには戦後になって、戦争に協力しなければ絵の具の配給が受けられなかったから、協力はしかたなかったと何人もの画家が言い訳しとったが、配給の絵の具がなくても、その気になって工夫すれば絵は描けるんだわな。 僕なんかも、戦時中は油絵具が無いから、溶かしてペンキとして使う「乾ペン」で絵を描いたりしたんだわな、絵なんか鉛筆一本、消し炭一つあれば描けるんだから、絵の具の配給を理由に戦争画を描いたというのは誤魔化しなんだよ。 ☆戦争協力詩の問題を、僕なりに考え続けてきて何回か発言もしてきていますので、戦時中の岡田先生の生き方にはとても興味を感じておりまして、いつか「岡田徹論」に挑戦させていただきたいと思っておりますので、今の岡田先生の発言をしっかり記憶に止めて、僕なりに熟成させて書いてみたいと思います。

▲主宰する「今池アートスクール」にて長時間のインタビューに応じる岡田 徹画伯
■現代のシュールレアリスム絵画について ☆ところで、現代絵画が哲学の無い、表現技術だけのシュールレアリズム風絵画に成っているというご指摘なんですが、現代絵画の周辺に視野を広げて眺めても、印刷技術や映像技術が進歩したおかげで、合成やデフォルメなどを駆使したトリックが容易にできますから、一見シュールレアリスム風の広告やコマーシャル映像が出来上がって氾濫していますけれど、若い製作者達に、哲学や主義としてのシュールレアリスム意識は無いような気がしますね。その事の是非を問う資格は僕にはありませんが、文学の端くれに係わってきた一人として、僕も現代に対応したシュールレアリスム理論の再構築の必要性を文学の分野で問題提起(『葦牙』二三号、発売・田畑書店)したことが有りますので、岡田先生のご意見にはとても共感するものを感じているところです。
岡田 徹「美術文化」も含めて、若い画家の絵を観ていると、なかなかいい絵を描いとるなと思う絵があるんだな、それで直接に話しをしてみると、意外に底が浅いんでがっかりすることもおおいんだよ。 初期シュールレアリスム画家の哲学の甘さが、そのまま現代まで引き継がれているわけなんだ。ですから日本のシュールレアリスム絵画はこれからですよ。これから本物のシュールレアリスム絵画を創り出していかなっきぁならないと思ってるんだよ。 若い画家の中に、所謂「画面上の表現技術だけの前衛」というような考え方が浸透していて、だんだんと定着しつつあるんだが、やっぱり画家と言うのは、その生きている時代、時代に向き合って、既成の権威や権力に対して厳しい目を持たなければ、本当の意味での現代絵画は描けないんじゃないかと思うんだな。 時代や自分の生きかたに対する厳しい視線の無い絵では、僕はなんだか物足りないんだわな。結局のところ、芸大や美大の教授連中もサラリーマン化してしまっているし、日展系の画家連中も絵を売ることに夢中になっているから、学生や若い絵描きが真似してそうなるのは仕方ないと言えば仕方ないんだが。社会に出て、今の日本の状態をちゃんと見たら、経済的にも政治的にも、今の日本はそんな呑気な状態じゃないと思うんだわな。 ☆岡田先生のお話を伺っておりますと、絵画の世界も文学の世界も現状の似ているところがあって考えさせられます。一朝一夕には行かない難しい問題を孕んでいるわけですけれど、だからといって沈黙しているばかりではなにも変わらないわけですから、岡田先生には、もっともっと発言していただきたいと思います。
■沖縄シリーズのことなど
「さとうきび畑の歌(T)」の前でポーズをとる子供たち
☆「朝日新聞」("九七年八月一〇日、愛知版)<岡田徹インタビュー>の末尾で「この先しばらくは、沖縄をテーマにします。一昨年は世間で「戦後五十年」なんて言葉が流行語のようになりましたね。別に節目だからということではありません。「日本は祖国ではなかった」という島のお年寄りの言葉が頭にこびりついていまして・・・」と述べておられますが、岡田先生が今まで沖縄をテーマにして描かなかったというのは何か理由でもあるのでしょうか。
岡田 徹なぜか沖縄をテーマに今まで描いとらんのだわな。しいて理由を探せば、「絵の創作者として、沖縄を簡単に描いてはいかん」という思いは、心のどっかにあったかもしれんわな。 岐阜県立美術館にまとめて収蔵されている<原爆シリーズ>も、被爆者の母親から産まれた一つ目の赤ちゃんの、新聞に載った衝撃的な写真と出会わなかったら、あるいは描かなかったかもしれんのだよ。僕は被爆者でもないし、広島、長崎に生まれたわけでもないし、直後の被爆地を訪れてスケッチをしたりしているわけでもないんだよ。かつて「美術文化」の仲間だった広島出身の丸木位里君たちの仕事とは、その点で僕は異なるんだわな。 ☆丸木位里・俊さんの一連の「原爆の図」シリーズは、大新聞の社会面のトップで度々扱われても、美術専門誌紙での芸術作品としての評価はほとんど無い作品で(本誌執筆のヨシダ・ヨシエ氏の『丸木位里・俊の時空』を参照されたし)、政治的社会的には、共産党と決別した後は原水協勢力側の黙殺的視線も浴びせられてもきましたし、評価が紆余曲折した作品シリーズだと思うのですが、僕自身は「原爆の図」の作品の前で鳥肌を立てた経験を持っていますので、政治絡みの否定的評価には与しない立場ですし、その立場から詩運動内の論争に加わったこともあります。岡田先生は「原爆の図」シリーズはどう見ておられるのでしょうか。
岡田 徹丸木位里君は一時期「美術文化協会」のメンバーだったし力量のある作家なんだよ、だから当然「原爆の図」も一定水準以上のレベルを持っとるんだわな。だからこそ広範な大衆に訴える力を持っているわけなんで、原爆の恐ろしさ、悲惨さを日本中に知らしめた功績は大きんだわな。だから「原爆の図」を政治的な都合で否定したり、肯定したりすること事態が歪んどるんだわな。 勿論、絵の創作者としての立場から見れば、僕も、丸木夫婦の表現方法、創作方法に批判がないわけでは無いんだが、それは、絵を創作する者同士のそれぞれの立場として批判は当然なんであって、政治的に手のひらを返したような批判や肯定とは意味が違うんだわな。 ☆「沖縄シリーズ」に戻りたいと思いますが、二十数年前、沖縄祖国復帰運動が盛り上がった時に、返還運動に積極的に関わった僕も沖縄をテーマにした詩を書きましたし、当時の「日本美術会・アンデパンダン展」などを観に行きますと、沖縄や、復帰運動を描くことがブームみたいな雰囲気もありました。その時も岡田先生は沖縄をテーマには描いておられない、つまり岡田先生は時局に流されない強固な信念みたいなものをお持ちなのだと思うわけです。また、岡田先生は目の前の風景や現実を、キャンバス上に再現して満足する画家ではありませんので、「恵子美術館」にご寄贈いただいた「沖縄シリーズ」を描き出すためには、何十年も経って、ご自分の内側から突き上げてくる創作上の必然的契機、きっかけを待っていたということでしょうか?
岡田 徹僕はブームでは沖縄の絵は描かんのだよ。僕はけして沖縄に無関心じゃないですよ。日本は沖縄を犠牲にして本土決戦を避けたのだし、戦後日本の経済復興だって、朝鮮特需、ベトナム特需と、沖縄を犠牲にして今の日本があるんだから、政府も国民も、もっともっと沖縄に目を向けるべきだし、基地を無くすための努力もすべきなんだなぁ。 沖縄には県立美術館が無くて、現代美術の常設美術館が一つも無いとのことだが、それだって沖縄県の行政のせいにしてすます問題じゃないんだよ。沖縄を犠牲にして世界有数の経済大国になった本土政府が責任をもってお金を出したらいいんだよ。僕も国民の一人として沖縄のために何かしたいと思い続けてはおったんだが、その思いと、一人の画家として、創作者として安易に沖縄を描くこととは別問題なんだわな。
ところが数カ月前だったかな、「朝日新聞」のインタビューでも言ったように、沖縄のお年寄りが、祖国復帰しても何もしてくれなかった、日本は祖国ではなかった。というような発言をしているのをテレビで聞いて、何か心の中に澱のように残ったんだよ。そして今度は、NHKテレビの「みんなの歌」で「さとうきび畑の歌」を聴いた途端、ポロポロと涙が溢れたんだよ。それから「さとうきび畑の歌」のCDを買ってきて、それをしょっちゅう聴きながら「沖縄シリーズ」(1)、(2)、を描いとったんだわなぁ。 そしたら偶然にも垣花さんから沖縄の宮古島に個人美術館建設をの話があったんで、これも何かの縁だろうと思って寄贈することにしたんだよ。これを機会に、沖縄にもゆこうと思っとるんだよ。 ☆スケジュールが一杯だとは思いますが、今から沖縄訪問の実現を楽しみにしております。今日は長時間にわたり貴重なお話をありがとうございました。
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岡田 徹画歴 ■
岡田 徹、1914年名古屋市に生まれる。 ■ 1939年に創立された<美術文化協会>に参加。 ■
1941年招集。召集翌日にアトリエが特高警察によって捜索、全作品、美術資料などを不当に没収。戦後焼却処分されていたことが判明。 ■
戦後は度重なる<美術文化協会>の分裂を乗り越えて再建に努力する。 ■ 1965年、日米加文化使節団長として渡米交流する。 ■
1967年、中日文化センタ−開校と同時に洋画部講師となり現在にいたる。 ■
1971年、「第1回中部国際形象展」(毎日新聞主催)に招待出品、以後連続出品する。渡欧。 ■
1974年、「第1回創炎展」(愛知県美術館)に賛助出品、以後現在まで出品。「第1回・東京展」出品。 ■
1975年、「朝日展」(朝日新聞主催)招待出品。「代表作家展」(名古屋・日動画廊) ■
1977年、「昭和の前衛絵画展<中部のパイオニア展>」(ギャラリ−白善)。 ■
1979年、「ニュ−ヨ−ク美術文化19人展」(ニュ−ヨ−ク/アズマギャラリ−)。「第1回・中日展」招待出品。 ■
1980年、「ニュ−ヨ−ク美術文化23人展」(ニュ−ヨ−ク/アズマギャラリ−)。渡米。 ■
1981年、「抽象と幻想による海展」(神戸ポ−トピア"81)。渡欧。「名古屋市、ロスアンゼルス市交換美術展」招待出品。「岡田徹個展」(中日ギャラリー)。 ■
1982年、「美術の窓」創刊号から「美術時評」を10回連載。 ■
1985年、「東京モンパルナスとシュ−ルレアリスム展」(板橋区立美術館)に出品。 ■
1987年、「画業50年岡田徹回顧展」(名古屋・電気文化会館ギャラリ−)。記念画集発刊。 ■
1990年、「日本のシュ−ルレアリスム展」(名古屋市立美術館)に岐阜県美術館収蔵作品が展示される。 ■
1991年、「韓日現代美術作家展」(韓国・ソウル)出品。「岡田徹個展」(東京・セントラル美術館)。 ■
1994年、「国体のある風景展・第49回・国民体育大会特別展」(愛知県美術館ギャラリ−)。岡田徹自選展(名古屋市民ギャラリ−)。記念画集「岡田徹画集」が<生活の友社>より刊行される。 ■
1997年、恵子美術館に「さとうきび畑の歌 T」F100号、「さとうきび畑の歌 U」F30号を寄贈。 ■
2000年、「恵子美術館3周年のつどい」出席のため沖縄本島、宮古島を訪問。 ◆2007年、12月4日、肺炎のため死去。享年94歳。
■美術文化協会代表委員。日本国際ア−チスト協会委員。創炎美術協会代表。全日本児童美術協会会長。中日文化センタ−洋画講師他を歴任。
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